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近代絵画展

 

1

   書店で、ドストエフスキーの文庫本をまとめて買ってきた。もう、お金はどこをひっくり返しても出てこない。
   部屋は、暖房もつけていない。毛布に包まった老人のような僕はただ一心に読書をしていた。
   唯一ある電子機器は、ケータイくらのものだ。ケータイは、学生時代から使用しているもので、利用料金は、未だに親に払ってもらっている。ほとんど使わないため必要ない、と言ったけれど、親は持っていろ、と言う。どうだっていいさ。
   書きかけの履歴書が、ちゃぶ台の上に置かれて何日が経過したろうか。僕は、履歴書を指でなぞった。指先に付着した埃に息を吹きかけて散らす。そろそろ潮時だ。
   ケータイを手に取ろうとしたちょうどその時、着信のベルが静かな部屋の空気を振動させた。ディスプレイに表示された番号に覚えはなかったけれど、何かいいことがあるかもしれないと思い、通話ボタンを押した。

   「あ、もしもし」

   「もしもしぃ、西寺さんのケータイでよろしかったでしょうか?」

   女の声だった。僕は、そうだ、と応えた。この手の電話は、大体想像がつく。いつもであれば何も言わずに電話を切っているところだ。けれど、最近、人と会話というものをしていなかったので少し話を聞いてみることにした。

   「わたしぃ、館山キングハイエンターテイメント株式会社の者でぇす」女は、社名を強調して言った。社名はわかったけれど、なぜか名前は名乗らなかった。「この度、西寺さんにご連絡させて頂いたのは、近代絵画展キャンペーンに当選されたからなんですよぉ」

   「近代絵画!」

   僕は、少し喜び混じりで戸惑いの声をわざとらしく上げた。全く身に覚えのないことだけど、とりあえず調子を合わせておくことにした。

   「そうなんですよぉ。近代絵画展ですぅ。それで、展覧会にご招待させて頂きます」

   女は、こちらがなんとも言っていないのに、日時と場所を言った。僕は、半分上の空で聞いていた。展覧会の行なわれるのは、一日のみのようだった。予約制か何かで、日時が勝手に指定されたのだろうか。どちらにしても、おかしな話だ。

   「とても素晴らしい絵画が揃っているのです。どれも名作ばかり。ええ、ですから来て頂けますね」

   僕は、絵が大好きだ。油絵も何十作と描いてきた。だからこそ、この展覧会と呼ばれるものに名作が揃っているはずがないと断言できる。

   「うれしいな。喜んで伺いますよ!」

   行く気は全くないが、行くということにしておいた。

   「ありがとうございます。ではお待ちしておりますぅ」


2

   近代絵画展が開催された日、僕は、ドストエフスキーの「白痴」を夢中で読んでいた。
   翌日の夕方、「白痴」を読み終わったところでケータイに着信が入った。

   「もしもし、館山キングハイエンターテイメント株式会社ですぅ」

   「ああ、どうも」

   数日前の女だ。やたらと長い社名を聞いて、前にも電話があったことを思い出した。展覧会のことは、すっかり忘れていた。

   「昨日は、近代絵画展に来て頂けなかったこと、誠に残念に思います」

   「急用ができたもので……」

   ありがちな言い訳だ。こんなとき、どんな用ですか、と聞かれたら何も答えられない。余計な詮索をしないところが、赤の他人のいいところだ。それに謝ることはしなかった。別に悪いことなどしていない。

   「そうでしたかぁ。仕方ないですね」女は、続けた。「それでですね、また展覧会を開催することになりまして、その連絡を差し上げたんです。昨日来て頂けませんでしたので、それも急用とのことですので、改めてご招待いたします。きて頂けますね」

   急用とのことですので、というところに少し引っかかった。電話を掛けてきたということは、どちらにしても招待する気だったに違いない。急用であろうとそうでなかろうと。

   「いいんですか!それは、申し訳ない!」

   わざとらしく応えた。女は、また日時と場所を言った。前回の会場とは、異なっていた。


3

   2回目の展覧会開催日、僕は履歴書の続きを書いていた。趣味は「読書」と。資格はなし。……
   志望動機を考えて一日が終わった。結局、履歴書は、かけなかった。
   翌日、あの長い社名の会社から連絡があった。

   「ああ、考え事をしていたもので……」

   「え、あおあ、そうですか……」

   どもり具合から、動揺していることが窺えた。次に女が喋りだすまで、少し間が空いた。

   「それでは、次回の展覧会のお知らせをさせて頂きます」

   「いいんですか!度々、申し訳ない!必ず行きますよ!」

   女は、前回、前々回とはまた別の会場を案内した。会場の確保も大変だ。


4

   3回目の展覧会当日、僕はアパートを引き払い、実家に戻ってきていた。都会に出て手に入れたものと言えば、ドストエフスキーの小説くらいのものだ。結局、それも地元の書店にだって揃っている。
   テレビをつけると、見たこともない芸能人が当たり前の顔をして映っている。考えてみると、2年近くテレビは見ていない。僕はこの日、一日中テレビにかじりついていた。
   翌朝も起きるとすぐにテレビを見た。ニュースでは、都会のど真ん中にあるビルで火災が起こったことが報道されていた。今の僕には、何もかも新鮮な気がした。
   僕は不図、展覧会のことを思い出した。考えてみると、あの女の人は、どうしても僕を招待したいようだった。僕が、美大出身であることを知っていたのかもしれない。
   初めて、どんな絵があったのだろうと気になった。
   あれから、やたらと長い社名の会社からの連絡はない。何度も招待してくれたのだから、さぞ素晴らしい名画が揃っていたに違いない。


2009/01/13   たびびと

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