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青い顔とロッシーニ


   (ピンポーン、ピンポーン)

   僕は、資格取得対策の教材販売をしている。別にやりたい訳ではなかったけれど、内定をもらえたのは、この一社のみだった。生活のために仕方なく働いている。世の中、本当にやりたいことで飯を食えることなんて、ほんの一握りのものだと思う。とはいえ、僕には夢も希望もない。

   (ピンポーン、ピンポーン)

   こんな僕だから、販売員なんてもちろん向いていない。ノルマを達成したことなんて一度もない。社内でも、給料は最低だ。これでよく解雇されないと思う。大体、誰がこんな教材買うんだよ。詐欺もいいところだ。

   秋も終わろうとしている。僕は、横浜市青葉区の住宅街を歩き回っていた。なんで、こんなに歩き回らなけりゃいけねぇんだ。お陰でガリガリになってしまった。

   (ピンポーン、ピンポーン)応答はない。

   「はあ、留守か」

   すっかり独り言が癖になっている。留守も多いし、やっと玄関口に出てくれたお客にも相手にされないことが多い。ついつい独り言を言わずにはいられない。

   「次は4階か」

   階段を上り、一番奥の部屋から順番に廻る。一番奥の部屋は、留守だった。その一つ隣の部屋は、インターホンで門前払いだ。セールスマンお断りという訳か。このまま、どこかの喫茶店で時間を潰して、会社に戻ってもいいだろう。どうせ、毎月ノルマは達成できないんだ。僕だって、こんな教材は絶対に買わない。他人が買う訳がないんだ。

   最後に、この408号室だけ当たってみることにした。

   インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。まるで訪問を待ち構えていたかのようだ。中からやけに顔の青白い男が出てきた。目の下には、濃い隈ができている。明らかに寝不足だ。

   「こんにちは、わたくし館山キングハイキャリアサポートサービス株式会社の者です。この度は……」

   僕が用件を言い終えるのを遮るように、酷く顔の青い男が喋り始めた。

   「こんにちは。いやぁ、お待ちしていましたよ。そろそろ来ると思っていたんです。これは、予感ですよ。いや、何をおっしゃりたいか承知してます。教材ですね。教材の販売をしていらっしゃることは存じていますよ。見た目でわかる。私はね、顔を見ればその人がどんな人間か一発でわかるんですよ!ああ、立ち話もなんですから、さあ、どうぞ中へ」

   僕は、喋ることも許されず、中へ通された。今まで部屋の中に通されたことは、一度としてなかった。売り上げトップの販売員は、いつも部屋に上がり込むのだろうか。僕は、これだけで嬉しくなってしまった。張り切らずにはいられない。

   「さ、どうぞ、どうぞ。汚い所ですが。ああ、この椅子に座ってください。これです。こっちのは僕の席なんですよ。」

   僕が通されたダイニングキッチンは、テーブルと椅子が2つあるだけのシンプルな空間だった。

   「失礼します」

   僕は、奨められた椅子に腰を下ろした。

   「さっそくなんですが……」

   「その前に!お茶を入れますよ。ちょっと、お待ちいただけますね。む、お茶よりコーヒーの方がよかったでしょうか?」

   また、話を遮られた。仕方ない。呼吸を落ち着かせて、相手も落ち着いたところで、一気に畳み掛けるんだ。

   「お茶で結構です。いや、そんなにお気を遣わずに」

   「そうですか!いやね、お茶は、私が飲みたいんですよ。てっきり、あなたも飲みたいと思っていました。それじゃ、私の分だけ入れましょう。私は、緑茶が好きでしてね。一日に100杯は飲まないと気が済まないんですよ」

   結局、僕はお茶を出してもらえなかった。部屋へ通されることは初めてだったので、緊張して喉がカラカラに渇いていた。お茶は、とても飲みたかったけれど、こちらから言うのはずうずうしいと思ったのでやめた。

   青い顔の男は、湯飲み茶碗を手に戻ってきた。茶碗をテーブルに置くと、ゆっくりと自分の席に腰掛けた。僕は青い顔の男が、お茶を飲むまで待つことにした。しかし、男はお茶を飲もうとしなかったので、僕は喋り始めた。

   「わたくし、館山キングハイキャリアサポートサービス株式会社教材販売部のナガタと申します」

   僕は、長い社名をゆっくりと強調しながら言った。マニュアル通りだ。

   「ナガタさん!ナガタさんですね。私は、武田剛(タケダタケシ)と申します。どうぞ、よろしく!」

   武田は、僕の名前をわざとらしく強調して言った。笑みを浮かべ、どこか根拠のなさそうな自信に満ちた顔をしている。僕は、気後れしないように声を張り上げた。

   「それでですね、この度お伺いしましたのは、わたくしどもが用意した教材で、お客様の資格取得の支援をですね……」

   僕が説明している最中、カウンターに猫が飛び乗った。大きな黒猫だ。武田は、それを見ると慌てて席を立った。

   「おい、コラ!ロッシーニ!今すぐ降りるんだ!そこには、熱いお湯があるんだ!いいな!」

   武田は、猫に指差し、大げさに注意をした。ロッシーニは、差された指の先の匂いを嗅いだ。猫の習性だ。呑気なものだ。

   「ははは、可愛い猫ですね」

   「そうでしょう!拾ってきたんですよ。行儀は悪いが、気のいいヤツなんです。ほら、ロッシーニ!客人に挨拶をしなさい」

   武田は、ロッシーニの首根っこを引っ掴むとカウンターから下ろした。ロッシーニは、無愛想にダイニングから消えていった。

   武田は、席に着くとすぐに喋り始めた。僕は、未だに用件が話せずにいた。

   「ロッシーニはねぇ……」武田は、愛猫の話をし始めた。子猫だったロッシーニを拾ってきてから、今までの成長過程を延々と話した。

   聞き疲れた。どうやら話好きな人のようだ。青い顔には、似合わない。いや、これは先入観だ。今まで会ってきた青い顔をした人間は皆、口下手で、暗い性格をしていた。

   「どうですか、ロッシーニはいいヤツでしょう。ああ、ロッシーニの話は、この辺でやめましょう。教材の話でしたね。資格取得の。いや、僕はね、何か手に職を付けたいと思っているんです。というのも、先月会社を辞めたんでね。働くのに疲れたんです。毎日、残業で、身も心も疲れ果てました。家にいる時間が少ないでしょう。ということは、ロッシーニと過ごす時間がない。それで、辞めてから気づいたんですけど、ロッシーニと過ごす時間は十分得られましたが、ロッシーニを食べさせてやる金がなくなってしまった。これじゃあ、元も子もないでしょう。おっと、またロッシーニのことばかりになってしまいましたねぇ。申し訳ない!」

   武田は、やっと話を区切った。僕は、とにかく教材の説明をするしかない。

   「では、ロッシーニちゃんのためにも、ここで是非資格をお取りになって、就職にも役立てて頂きたいと思っております。」

   「ええ、ロッシーニのためにもね。ちなみにロッシーニは雄猫ですよ。呼ぶなら、ロッシーニ君にしてくださいね。あ、それはどうでもよかったですね。どうぞ、先を進めてください」

   そう言うと武田は、大きな音を立ててお茶をすすった。

   「では、まずどのような職業に就かれる予定ですか。それによって、適した資格をお奨めすることができます」

   「うーん、実はね、特に具体的には決めてはいないんですよ。まあ、プログラマーをやっていたのですが、残業が多くて、もう二度とやりたくないんです。できれば、負荷の軽い仕事がしたい。そうだな、簡単な事務作業がいい。漠然としていて申し訳ないですが、今はこんなことくらいしか考えていませんよ」

   就職ができない人にありがちな考えだ。僕も、特にやりたいことなんてなかった。就職活動の際に僕を担当した面接官たちには、僕の考えていることが見抜かれていたのだろう。

   「事務作業といっても、いろいろですからね。では、この資格一覧表を見てください。上から2番目にある資格はお奨めですよ。経理などに役立って、どの業界でも優遇されますよ。」

   僕は資格に関して全くの無知なのだけれど、社員教育で教わったことをそのまま実行した。僕は、マニュアル任せでしかない。

   「なるほど!これがいい!」

   武田は、声を張り上げ、あっさりと言った。この人は、他人の言うことを鵜呑みにする。これなら、契約もちょろいな。僕は、確信した。

   僕が畳み掛けに入ろうとした時、電話が鳴り響いた。

   「む、誰なんだ。今は、資格の話をしているというのに。ちょっと、お待ち下さいね」

   「ええ、お気になさらずに」

   武田は、お茶を一口すすると電話を取りに向かった。僕は、武田が電話を終えるまでの間、気持ちを落ち着かせ、心の整理に努めた。教材の契約書類をテーブルの上に並べた。

   「インターネット接続キャンペーン!」

   武田の大げさな声が聞こえた。どうやら、インターネットの業者から電話らしい。キャンペーンというくらいだから、契約時に何らかのサービスがあるのだろう。

   「プリンターが無料進呈!」

   いちいちわざとらしく驚く声が聞こえる。このままでは、武田はうまくやり込められて、インターネットの契約をしてしまいそうだ。

   「で、私にどうしろと!」

   武田の声の調子が一変した。

   「プリンターや利用料の割引で私の心が動くとでも?いいですか、第一パソコンも持っていない私が、どうやってインターネットを利用しろと言うのかね?まさか、パソコンを購入しろと言っているんですか。いいですか、そんなことをしたら、ロッシーニはどうなるんですか?」

   急にロッシーニの名前を持ち出している。相手は、何がなんだかわからないだろう。気持ちはわからなくもないけれど、武田はあまりコミュニケーション能力があるとは言えない。

   「あんたとは、お話になりませんね。こちらとしては、セールスなんてお断りなんですよ!」

   武田は「セールスお断り」ということを口にした。これは僕にとって雲行きが怪しくなった。しかし、武田は資格を必要としていると言った。もう少し説明すれば、大丈夫なはずだ。

   「いやあ、お待たせして申し訳ない。嫌な電話でしたよ。パソコンの押し売りをしようと言うんですよ。困ったものだ。パソコンなんて、もう画面も見たくありませんよ」

   武田なりの解釈で、業者の事業内容ががらりと変わった。

   「それでは続きを説明させて頂きます。といっても、私も資格をもっている訳ではございませんので、こちらのパンフレットを参考にして頂きたいと思います」

   武田は、パンフレットに一瞬目を落とすと、すぐに口を開いた。

   「なるほど、素晴らしい。是非とも取得したい!」

   ほとんど読んでいないはずなのに、よく言えたものだ。だが、これで決まりだ。

   「それで……金額の方は、おいくらに?」

   それもパンフレットに書いてある。やっぱり読んでいないじゃないか。だが、ここが問題だ。相手は、猫の餌を心配するくらいの経済状況だ。なんとか、うまく金額を安く思わせてやるしかない。確か、マニュアルに書いてあったな。

   「はい、本来でしたら、二十万円になるところですが、今回、武田様は初回サービスということで半額とさせて頂きます。パンフレットにも初回サービス用の料金が書かれているはずです。」

   問題集2冊で十万なんて、馬鹿らしい。書店に行けば、同じような問題集が一冊二千円程度で買えるばかりか、図書館に行けばただで借りられるんだ。

   「十万円!」

   「はい、十万円になります!」

   僕だったら、間違いなく断るし、間違いなく図書館に行く。

   「よし、決めた!買いますよ。ロッシーニのためだ!」

   やった!まんまとハマリおった。僕は、これまでこんなにうまくいったことがない。かなり時間は掛かったけれど、なんとも言えない達成感で満たされた。

   「ありがとうございます!それでは、契約書に記入を……」

   奥の扉が開き、パジャマ姿の派手な風貌の女が現れた。女は、僕の言葉をかき消した。

   「ちょっと、剛、なんで起こしてくれなかったのよ!仕事に遅刻しちゃうじゃないの。それに誰よ、これは!」

   女は、僕を露骨な眼差しで見下ろした。

   「いや、この方はだね。その、ああ、ごめんなさい」

   武田の態度が急に変わった。今にも消えてしまいそうなロウソクのようだ。

   「ごめんじゃないでしょ。誰かって聞いてるのよ」

   「あ、あのすみません。わたくし館山キングハイキャリアサポートサービス株式会社のナガタと申します。この度は、資格の……」

   仕方なく、説明をすることにしたけれど、またしても女が打ち消した。

   「何を訳のわからないことを言っているの?それに、あなた!そこは!わたしの席よ!勝手に座らないでくれる!わたしが座るんだから!」

   僕は急いで立ち上がり、女に席を譲った。この上なく肩身が狭い。
   女は、タバコに火をつけ、僕を睨むと、武田に目を移した。僕は、立っているしかなかった。

   「ご飯用意してよ。カレーでいいわ。レトルトがあったでしょ」

   「でも、資格がぁ……」

   武田は、消え入りそうに言った。

   「さっきから、何を訳のわからないことをいっているの?それに、この人にも、もう帰ってもらってよ。こっちも仕事に行かないといけないんだから。全く、邪魔だわ。」

   ハッキリと言われてしまった。なんなのだ、この女は……。女にしてみれば、僕がなんなのだと思っているだろう。しかし、この流れは、ひょっとして、まさか……。

   「う、うん、わかったよ。」武田は、僕の方に向き直った。「という訳だから、帰ってください」

   やはり、そうなるか。今日は、仕方ない。こうなってしまった以上、後日改めるしかないだろう。

   「そ、そうですか。では、ご都合が悪いようですので、今日はこれで失礼いたします。後日、契約の手続きに伺いたいのですが、ご都合のよろしい日はございますか?」

   「いや、とりあえずは、いいです」

   「と申されますと?」僕は言った。

   「ああ、もう結構だと言っているんですよ。私はね、ロッシーニの世話で忙しいんだ。さあ、お帰り願おう!」

   「そ、そんなぁ……」

   外は、もうすっかり暗くなっていた。冷気が僕の体を容赦なく凍てつかせる。
   僕は、通りかかった喫茶店に立ち寄り、コーヒーを注文した。コーヒーはとてもうまかった。
   会社を辞めて、喫茶店を開こう。いつまでも、こんな仕事を続けているわけにはいかない。このままでは、人間がどんどんダメになっていく。
   僕の心を温めてくれた喫茶店の名前は、その日のうちに忘れてしまったし、場所も思い出せない。けれど、あんな喫茶店を開きたいと心から思う。嫌々続ける仕事より、人を暖かく迎えるような仕事をする方が、僕に向いている。
   武田とロッシーニのことを思い出すと、腹が立つ。だけど、武田とロッシーニは僕に夢を運んできてくれた。今は、そう思うように努めるしかない。


2009/01/20   たびびと

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