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《嵐が丘》のヒーロー


「なあ、俺、死んでもいいかな。疲れたなぁ」

   ベッドに横たわり、すっかり頬のこけてしまった健一がかすれた声で呟いた。ベッドに横たわっていたのは、健一だけど、健一ではない。悪性の腫瘍に体を乗っ取られ、それに精神をコントロールされた数ヶ月前の健一とは別の健一なんだ。

「何言ってんだよ……」

   僕は「頑張れよ」なんていう当たり前の言葉しか浮かばなかった。「頑張れ」なんて言えない。健一は十分頑張って苦しさに耐えている。

   僕は高校時代から健一を知っている。僕と健一は同じ剣道部に所属していた。健一はどんなに苦しくても決して音を上げるなんてことはしなかった。厳しい練習ですぐにへばっていた僕は、健一の練習に対する忍耐強さが信じられないくらいだった。健一は部活動だけではなく、勉強も人一倍頑張っていた。成績はいつもクラスで上位だった。それが健一なんだ。

「何か欲しいものあるか?本とかさ、買ってくるぜ。なんでも言えよ。俺ちょっとトイレ言ってくるから、ついでに買ってくるよ」

「いらないよ。本を読む気なんか起きないさ」

   当然だと思った。僕だって持病の偏頭痛に見舞われたら好きなゲームだってやる気が起きないし、女を抱きたいとも思わない。がんと偏頭痛じゃ違いすぎることはわかっている。僕には結局健一の苦痛をわかってやれない。分かち合えるものならば、その苦痛の半分でも負ってやりたいと思う。僕は無力だ。

「じゃあ、ちょっとトイレ行ってくるわ」

   僕は病室を出て、そのまま家に帰って部屋に篭り2時間ほど泣いた。辛いのは健一なんだ。泣きたいのは健一なんだ。そんなことはわかっていたけれど、涙が溢れて止まらなかった。僕はこの時ほど自分の持ち合わせた無力な友情を恨んだことはない。無力な上に泣き虫だ。



「よお、随分長いトイレだったな。お前も入院した方がいいんじゃないか?」

   数日経って、ぼくが健一の病室を訪れると健一は冗談を言って少しだけ微笑んだ。久しぶりに笑った顔を見た気がした。

「すまんな。トイレに行って戻ろうと思ったんだけど、気づいたら家に帰ってたんだ」

「気づいたら?無意識のうちに?」

「無意識のうちに」

「お前、やっぱり入院した方がいいぜ。ほら、その辺に布団敷いて今日から一緒に入院だ」

   健一はぼくの顔を覗き込むとまた冗談を言った。

「今日は調子がいいんだ。天気もいいし、どこか行きたいんだけどな。こんな天気のいい日にはどこか出かけなければ損だな」

   健一は窓の外をじっと眺めて言った。健一が入院して2ヶ月が経った。2ヶ月も外に出てないのはどんな気分なのだろうか。運動が好きな健一だから、外で思い切り動き回りたいに決まっている。

「治ったらいくらでも出かけられるさ。どこへでも」

「もう治らないさ」

   僕は軽率にも「治る」なんてことを口にしてしまってから、すさまじく後悔した。ぼくはたまに何も考えずに言葉を発してしまう。せめて自分に言葉を選べるだけの語彙と力があればと激しく思う。無力で泣き虫で、その上馬鹿ときている。

   一分ほど沈黙が続いてから、健一が口を開いた。外の景色から目を離さない。

「なあ、連れ出してくれないかな。ちょっとでいいんだ。」

   ぼくは迷っていた。どちらにしても回復しないのなら、連れ出してしまってもいい。だけど、僕が連れ出すことで健一の体調が悪化してしまうかもしれない。

「大丈夫さ、少しだけだよ。行きたいところがあるんだ。遠くない。というかすっごい近いところなんだ。そこを少し眺めたら大人しく帰るからさ」

   健一は「すごい近い」というところを強調した。

「どこ?」

「嵐が丘」

「嵐が丘?エミリー・ブロンテの?」

「そう、エミリー・ブロンテの嵐が丘から名前を貰った。風が気持ちよく通り過ぎてゆく丘なんだ。俺は小さい頃よく家族とピクニックに行った。俺の家から歩いて15分くらいのところにある名もないちょっとした丘だよ」

   健一は相変わらず外を眺めながら言った。僕の中から、いつの間にか迷いは消えていた。

「ほら、乗れよ」

   ベッドの横で健一に背中を向けて膝を着いた。健一は黙って背中に乗ってきた。



   病院から車で30分ほどのところに健一の自宅があった。健一は、家に寄ってくれ、と言ったので、健一の家を通りかかるとき車を停めた。

「持っていきたいものがあるんだ」

   僕は健一を背負って健一の家に入った。玄関を開ける音を聞きつけたのか、健一の弟が様子を見に来た。

「兄貴……」

「よお、康二。勉強頑張ってるか。大学受験をなめたらいかんよ」

「そんなことより、病院は?」

「病院?なんだね、それは?」

   健一は冗談混じりに言った。

「さっき母さんがそっちに行ったんだけど」

「おお、そいつはまずいな。置き手紙でもしてくるんだったな。まあいい。康二、お前は勉強に集中するんだ。じゃあな」

   健一は弟との会話を強引に中断し、僕を健一の部屋へと向かわせた。

「机と本棚の間にビニールシートが挟んであるんだよ。アイアンマンのビニールシート」

「アンパンマン?」

「アイアンマンだ。名前からして強そうだろ。アメコミのヒーローなんだよ。俺が小さい頃に親父が海外出張で買ってきた。気に入ってるんだ」

   健一の部屋の机は随分使い込まれている。勉強も頑張っていたから不思議には思わなかった。隣にある三段の本棚の上段には小説があり、中段と下段には漫画が揃えられていた。上段には当然のようにエミリー・ブロンテの『嵐が丘』があった。使い込まれた机と『嵐が丘』がある本棚の隙間にビニールシートが挟まっていた。

「これか?」

   僕はビニールシートを手に取り、その場で開いてみた。ビニールシートには赤と黄色で配色されたアメコミのヒーローが描かれていた。お世辞にもカッコいいとは言えないと思った。

「どうだ、カッコいいだろ?」

「あ、ああ、カッコいいよ」

   僕はどもって「カッコいい」と言ったつもりが「カ、クコいい」となってしまったような気がした。

「無理すんなよ。俺だって、この歳になれば少しは気がつくんだぜ。でも、小さい頃は間違いなくカッコいいと思ってた。今だって俺のヒーローなんだ」



   《嵐が丘》は一面緑に覆われていた。風が背の低い草を撫でながらサラサラと音を立てながら通り過ぎてゆく。

「ここが《嵐が丘》。風は穏やかなのに《嵐が丘》。いいところだろ」

「ああ、こんな場所があったんだな」

「ここに屋敷を建てて住みたかった。小説じゃないけどさ」



   僕は背中に健一を背負い、背負われた健一の手には《アイアンマン》のビニールシートが大切そうに握られていた。

「この辺がいい。いつもこの辺りに座って弁当を食べてた」

   僕は健一が指定した場所にビニールシートを敷き、健一を座らせた。

「あれ、こんなに小さいものだったかな。《アイアンマン》の顔がすっかり見えなくなっちまった。2人で座ったらまるっきり見えなくなるな」

   確かにそのビニールシートは大人が2人腰を下ろすには少し小さく感じられた。それだけ僕らは、いや健一は成長したということだ。

   僕らは隣同士寄り添うようにビニールシートの上に腰掛けた。僕らの向いた方向には八ヶ岳が聳(そび)えていた。緑濃き山々が連なる壮大眺めだった。

「八ヶ岳がこんなに綺麗に見えるんだな。俺さ、この前登ってきたんだ。あの一番高いところだよ」僕は言った。

「赤岳か。いい眺めなんだろうな」

「曇ってて何も見えなかったよ」

「山の天気は変わりやすいからな。でもなんか、その辺の上司みたいだな。上に立つと、無駄に気負って下が見えなくなるものだ、なんてな。ははは」

   健一はそう言って静かに笑った。ぼくらはしばらく八ヶ岳を眺めていた。

「なあ、人間なんて」健一が口を開いた。「人間なんて、どうせいつかは死ぬんだけどさ、どちらかというと生きてた方がいいぜ。生きて好きなことやった方がいい。別にこんな病気になったから言ってるんじゃない。健康だった時からそう思ってたよ」

   僕は健一に視線を移した。八ヶ岳を眺めたままだった。穏やかな風が通り過ぎ、健一の短く刈り込まれた柔らかい髪の毛を撫でていった。とてもやさしい風だった。

「確かに人間はいつか死ぬ。時を重ねただけで死に近づくんだ。俺みたいに病気になって死ぬ人もいるし、事故で訳が分からないまま死ぬ人だっている。だからといって、何もせずに死を迎えるなんて勿体ないよな。
   なに当たり前のことを言ってるんだよ、とか思ってるだろ?でもさ、よくいるんだよ、結局死ぬんだから何やっても意味がない、とか考えて諦めている奴がさ。口には出さないけど、目を見るとわかる。俺は相手の顔を、目を見れば、その人が何を考えているのか大体わかるんだ。瞳の中を覗き込むと虚無感で溢れている。別にそう考えてもいい。当たり前のことだし、俺だって随分悩んだ時期もあるからさ。だけど、もう一段階上の考え方をした方が絶対いいと思う。死ぬのなら何もする意味がないと考えるより、どうせ死ぬんだから、何にでも意味を持たせて楽しんだらいいと思ってるよ。別に好き勝手にやれとかいうことじゃないけどな」

   健一はそれだけ一息に喋ると、何度か深呼吸して呼吸を整えた。久しぶりに外に出て、いつも以上に喋ったので、さすがに疲れたようだった。

「八ヶ岳はやっぱり綺麗だな」



   10年前、《嵐が丘》で健一が言ったことは今でもはっきりと憶えている。「結局死ぬんだから何をやっても意味はない」そう思っていたのは紛れもなく僕だった。健一は僕に諦めるなと言っていたんだ。
   今年35歳になった僕は仕事をしながら絵を描いている。心の中にあるものを正直な気持ちでキャンバスに投影する。あの優しい風が通り過ぎる《嵐が丘》を。今度行なわれる個展に出展する最後の作品だ。

「ねえ、これは何?」

   彼女は《嵐が丘》の真ん中に立って片手を空に掲げている赤と黄色で配色されたものを指差して言った。

「アイアンマン」

「アンパンマン?」

「アイアンマンだ。名前からして強そうだろ?」

   《アイアンマン》が空に向かって掲げた手は輝き、その光は四方に拡散していた。どこまでもその光は届く。その輝きは夜の《嵐が丘》を明るく照らしている。遥かな夜空にも限りなく伸びていく。


2009/02/04   たびびと

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