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Nothing (何もない)


   大学も夏休みになった。ぼくが住んでいる寮のどの部屋の前にもスリッパがなくなった。残っているのは、ぼくと無口な4年生だけだ。

   ぼくはこの4年生と口を聞いたことはない。名前も知らない。ただ、わかっていることは、ぼくより2学年上ということだけだ。それも寮のおばちゃんに教えてもらった。おばちゃんは、なぜか名前を教えてくれなかった。学年を教えてくれただけで、特に紹介もしてくれなかった。おばちゃんは、名前を知らないはずがない。何か隠しているような印象を受けた。

   無口な先輩はいつも首にヘッドホンを付けており、リュックサックを背負っている。別に外出する訳ではない。共同のトイレや風呂に行く時でも同じ格好をしている。風呂に行くときなどは、洗面用具をリュックに入れる訳ではなく、ちゃんと手に持っている。何かあのリュックサックにこだわりを持っているのだろうか。

   ぼくは入寮した頃、寮の人々に廊下で会うとちゃんと挨拶をしていた。リュックサックとも時折、廊下ですれ違う。みんなはちゃんと挨拶を返してくれたけれど、リュックサックはぼくを無視した。無表情でぼくを避けるようにして通り過ぎた。最初の2週間は無視をされ続け、やがてぼくはリュックサックに挨拶をすることはなくなった。それ以来ぼくはリュックサックを空気のように扱っている。挨拶もできないなんて最低だ。ぼくはどこかでリュックサックを軽蔑していた。ぼくが通ると、リュックサックは決まって壁にへばりつくようにして避けて通っていく。リュックサックには一度も大学で会ったことはなかった。同じ大学で学年は違っても、一度くらい会ってもおかしくはないはずだ。けれど、リュックサックに会うのは、寮の廊下に限られていた。

   ある日、ぼくはリュックサックが人間ではなくロボットではないだろうか、と思うようになった。ヘッドホンとリュックサックがデフォルトで装備されている。それは取り外しが不可能だ。それから人間を優先させるようにプログラムされており、廊下ですれ違う時は必ず避けるようになっている。無表情に挨拶をしないのは、ただ出来ないからだ。表情を豊かにしたり、声を出したりするほど、精巧にはできていない。おばちゃんは、リュックサックがロボットだということを知っている。だから、どこか隠している印象を受けたのも納得できる。

   リュックサックはロボットだ。ぼくは、リュックサックをそっとしておこうと決めた。



   ぼくは誰に対しても、自分の考えを押し付けようとしているだけなのかもしれない。リュックサックに対しても例外じゃない。挨拶をしなかったということだけで、ぼくはリュックサックを最低な人間と見なした。中にはそっとしておいた方がいい人間だっている。世の中、誰しもが地上生活に向いている訳じゃない。

   ぼくには友達が一人もいない。気がついたら、誰もぼくの周りにいなかった。きっと、ぼくは自分と同じ考え方を持った人間じゃないと受け入れようとしなかったからだと思う。そして、ぼくと同じ考え方の人間には一度も出会わなかった。だから、ぼくには友達が一人もいないんだ。



   大学に行くと、ぼくは妙な2人組みをよく見かけた。同じ学年だと思う。受ける講義のほとんどに彼らは現れた。一人はスラリとしていて、身長が高く、顔色が優れない。目つきもあまりよくなかった。もう一人は体格ががっしりとしていて、坊主頭でいつも眠そうな顔をしていて、バカみたいに見えた。2人はとても仲がよさそうだった。周りをキョロキョロと見回しては、指を差して笑っていた。ぼくは何がそんなにおかしいのかわからなかった。

   ぼくはある日、講義を受けていた。一度単位を落とした講義だった。講義の終わりに教授が再履修者に対して何かを言ったようだった。ぼくは再履修者だったけれど、聞き逃してしまった。きっと重要なことを言ったに違いなかった。ぼくは慌てて、周りを眺め回した。誰かに聞くしかないと思ったからだ。後を振り向くと、ちょうど誰かが座っていた。それはあの妙な2人組のうちの一人で、スラリとした顔色の悪い方の人だった。もう一人の坊主頭はなぜかいなかった。ぼくは、一人でいるスラリに話しかけることにした。一人でいる人にはなぜか話しかけやすい印象を持っていたからだ。

「あの、すみまん、今先生は、再履修者の人に対してなんと言っていましたか?」

   ぼくは調子がよかった。今なら他人に対して、何でも話せるような気になっていた。ところがスラリはいつも以上に顔色が悪くて、どこか具合が悪そうだった。

「知らね」

   スラリは軽くそう言うと、顔を伏せて寝てしまった。ぼくは何か悪いことをしてしまった気がしたけれど、それが何なのかぼくには分からなかった。ぼくはその日、寮に戻ってからすぐに寝てしまった。



   数日後、ぼくは大学で自分のいる教室がどこかわからなくなってしまった。正確に言うと、ぼくが受けるべき講義を行なう教室が果たしてこの教室でよかったのか、ということがわからなくなってしまったのだ。ぼくは誰かに聞けば、きっとわかるだろうと、周りを見回した。2人組のうちの一人で、スラリではない方の坊主頭が腕組みをして座っていた。ぼくは坊主に尋ねることにした。

「すみません、メディア処理基礎の教室はここでよかったでしょうか?」

   坊主はどこか根拠のなさそうな自信に満ち溢れた顔をしていた。いつも見る印象とはちょっと違って見えた。

「知らね」

   坊主は自信満々にそう答えた。この人は一体なんでこの教室にいるのだろうか。ぼくにはわからなかった。

「ここはメディア処理基礎の教室じゃないのかな」

   ぼくはそう言うと、あたりを見回しながら、教室を出て、そのまま寮に戻ってきてしまった。ぼくはスラリに対しては、何か悪いことをしたような気がしたけれど、坊主には何も悪いことをしたとは思えなかった。

   寮の部屋でしばらく考え込んだけれど、一向に答えが見つからなかったので、布団にもぐりこんだ。床に転がっていた小説を手にとって、少し読んでみたけれど、すぐに閉じた。集中できなかったからだ。どこか熱っぽくなったような気がして、起き上がることができなかった。

   ぼくはその学期、いくつもの単位を落とした。単位を落としてしまった講義には必ずスラリと坊主の2人組が現れた。彼らの言葉はどれも意味のわからないものばかりだった。それでも彼らはとても楽しそうに喋っていた。きっと何かの宗教をやっているに違いない。その後も妙な2人組とは大学で会った。



   ぼくは留年してしまった。留年してからは、さすがにあの妙な2人組と会うことはなくなった。きっと、ちゃんと卒業できたのだろう。しかし、なぜ彼らが卒業できたのに、ぼくは留年したのかがわからなかった。留年しても廊下でリュックサックとは、すれ違った。リュックサックはやっぱりロボットなのかもしれない。


2009/02/12   たびびと

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