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暗い階段、湖の底へ


   午後9時を回った頃、Tはデスクの上を整理しはじめた。まだまだ、やることは沢山残っていた。明日の報告会議プレゼン用の資料作成、打ち合わせで指摘されたシステム設計書の修正、トラブルシートの整理および入力作業、システムのレスポンスタイム縮小の改修プログラミング、性能試験用データの作成、あらゆる厄介な仕事が残っていた。というより、Tはプライオリティの高い仕事、つまりはその日のうちに片付けておかなければならない業務はすべて終わらせていた。しかし、時間の経過とともに残しておいた仕事が再び同様のプライオリティを有したのであった。仕事というものは、そういうものだ。Tはそう思って納得していたが、さすがに集中力がなくなっていた。月も半ばだというのに、時間外労働が100時間に達しようとしていた。

《畜生!こっちは他人の倍働いているんだ!大体試験用データなんて誰だって作れるじゃないか。なんで、入社5年目にして、未だにそんなことをやらなければならないのだろうか。》

   Tは、面倒になり、引き出しを開け、あらゆる書類を雪崩のように流し込もうとした。それがうまくゆかず、書類のほとんどが床にドサッと落ちてしまった。ちょっとした量ではなかった。そこへ、派遣社員の内村がコーヒーを持ってやってきた。

「手伝いましょうか」

「いや、いいよ。すぐ片付くから」

「そうっすか。でも、最近きついっすね。派遣の俺がこんなこと言うのも生意気かもしれないっすけど、この忙しさはおかしいっすよ。一方では職がなくて困ってる人だっているってのに」

   内村は、周りを見渡しながら喋った。

「そんなものだよ。困っている人がいれば、その逆だってあるさ」

   Tは、落ちている書類をかき集めては、机の引き出しに放り込んでいった。

「そういうものですかねぇ。まあ、仕方ないですよね。ああ、俺もう上がります。これ、どうぞ」

   内村は持っていたコーヒーをTのデスクに置いて、帰っていった。

「ありがとう。お疲れ」

   Tは、内村を見送ると、急いでデスクに鍵をかけた。引き出しに収まりきらずに書類の一部が飛び出していたけれど、構わずにおいた。

《内村の言ったことはもっともなことだな。どこかでは職がなくて困っている。その一方、こうして仕事もあって、忙しくてたまらないところだってある。納得しているつもりだが、やっぱり不公平なものだ。忙しくて大変だ、なんて贅沢かもしれんが、限度がある。2日も風呂に入ってないなんて最低だよ。髪の毛なんてベトベトするし、足は臭くなるし。今日は早く帰って風呂にゆっくりと入り、たっぷり寝るんだ!》

   デスクの上も綺麗になったころ、奥の会議室の扉が開けられた。中から一人、また一人と人が出てきた。

《まずい!リーダー会が終わったみたいだ。リーダーに捕まると、また帰られなくなる。ここはダッシュだ》

   Tは、椅子を投げるようにデスクに押し込むと、出口に向かって走り出した。内村のコーヒーはそのまま残された。後で誰かに呼ばれた気がしたけれど、構わずに飛び出した。

   エレベーターのボタンを飛び出した勢いで殴った。エレベーターはまだ1階にいた。Tのいる5階までくるには時間が掛かりそうだった。待っていたら、リーダーに捕まってしまう危険性があった。足踏みをしながら、何度かボタンを殴った。焦っていることが誰から見てもわかるほどだった。

《クソ!内村のせいか!あいつがエレベーターなんて使わなかったら、今頃は扉が開いていたはずだ!コーヒーなんて置いていくより、エレベーターを使わないようにしろ!気の遣い方がおかしいんだよ!そんなことより!そんなことよりだ!リーダーの声が聞こえたような気がしたぞ!あいつにつかまったらどうなるかわかったもんじゃない。あいつは他人がどうなってもいいと思っているんだ!自分はいつも早く帰って、俺が泊まったのを見ると大喜びしやがる!サディストだ!あいつは紛れもないサディストなんだ!俺は奴隷じゃない!なんであんな変態の奴隷にならなければならないのだ。今日は何があろうと帰ってやる!》

   エレベーターはなかなか上に来ようとしなかった。Tは、諦めて階段で下りることにした。Tは、力を振り絞って階段を駆け下りた。まさに転げ落ちるようにして降りたのである。そのうち、運動不足が祟ったためか、足がついてこず、本当に転げ落ちてしまった。

《俺はどうなっているんだ。目が回るな。まさか、落ちているのか?いや、特に痛くないぞ。それより、ここはどこだ。なんか、気持ちがいいなあ》

   Tの周りを次第に暗闇が支配していった。Tはその暗闇にまどろみ、そして深く溶け込んでいった。辺りには、生暖かい湖が広がっていった。Tは、その湖に沈もうとしていた。

   Tのデスクに置かれたコーヒーもその湖と同じように生ぬるくなっていた。
   
   
2009/03/06   たびびと

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