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雨は落ち、木は伸びる


   空腹に耐えかね、近くのコンビニに行くために外に出て、目の前の階段から見下ろすアパートの狭い入り口が成している長方形の範囲に、ポツポツとして光りながら揺れる、真っ黒に染められたアスファルトを認めると、後ろ手に締めかけた部屋の扉を再び開け、穴の空きかけたビニール傘を乱暴に取り出した。部屋の除湿機は、全力の唸りを上げながら、昨年から着ていない、いつクリーニングに出すともなくクローゼットに眠っているビジネススーツにカビが生えないように気を遣っていた。部屋の扉を閉めた途端に外の雨音が耳に入ってくる。道に出ると、思った以上に雨が降っていることがわかった。始めのうちは水が跳ねて靴を濡らさぬように気を配って歩くけれど、しばらくしたらそんなことは忘れてしまう。思考は移ろうものだ。

   人間は、一つのことを長く考えていることが苦手なのかもしれない。今まで考えていたことはいつの間にか忘れ、別のことを考えている。それが健康的なことなのだと僕は思う。いつまでも同じことを考えていたら、前に進めないのだから。ただし、完全に忘れてしまうわけじゃない。あくまで一時的に忘れるだけで、いつも心のどこかにはある。あるときには励まされ、あるときには思い悩んで病気になることだってある。良いことも、悪いことも、心の隅にいつも存在する。ことに大切な友人のことは、どんなことがあっても忘れることはできない。時には口論となり、殴り倒したことさえある僕の親友、弥一のことは。

   これだけは確信を持って言える。僕は、毎日、一日のどこかで、弥一のことを思っている。弥一がいたことを思う。ケンカをしたことを思う。将来について語り合ったことを思う。僕が生きている限り、弥一はいつまでも僕の中にある。今、目の前に弥一を思い描く。どんな時も笑っていた。本当は、人が大勢いるところは苦手なくせに、青い顔をしながらもニコニコしていたこともあった。笑顔が似合うヤツだった。その死に顔さえ、微笑んでいた。そんな弥一は、この雨の中でも微笑んでいた。

   一歩また一歩と進むうち、弥一は後ろに遠ざかってゆく。弥一は、微笑みながら、僕を見送っている。本当は、不安なんじゃないかと思う。僕が一緒にいるとき、弥一は暗い顔をしたことがない。僕と一緒にいるから暗い顔をしたことがないのかもしれない。気を使っていたのだ。

「大丈夫、ここにいれば、僕がまた戻ってきた時に君に行き会うから。この青い屋根の家の前で待ってて」

   弥一は消え、僕の目の前にはもう飽き飽きしているのだけれど、仕方なく空腹を満たすための食べ物たちが現れる。何があっても、生きるためには食べなければならない。いや、僕は生きなければならない。僕が生きている限り、弥一も一緒に生きている。僕の中で生きている。

   弁当一つではとても空腹を満たすことはできないので、パンやスナック菓子、アイスクリームを買い込んだ。収入がない人間のやることではないと思う。お国から失業保険が支給されているけれど、今月でその支給も終わる。それにも関わらず、未だに働く気になれないのは、こんなどんよりとした季節のせいなのだろうか。いや、僕はもともと追い込まれなければ動かないタイプの人間なんだ。ギリギリのところまで行ったら、きっと働くのだろう。今はそんな他人事のようにしか思っていない。明日の俺よ、頑張ってくれ、といったところだ。

   袋いっぱいの食べ飽きた食料を左手にぶら下げて、右手に傘を無気力にゆらゆらさせながら住宅街を歩いた。雨さえ降っていなければ、もっと早く歩けるのに、と多少の苛立ちを覚えながら。そして立ち止まった。先ほど心の中で弥一との一時的な別れをしたあの青い屋根の家の前に立っていることに気づいて。

   同じものを長く見続けると、不自然なもののように思えてくるもので、見れば見るほど、その青い屋根は変な形のものに思えてきた。屋根の斜面は左右で長さが違う。片方の斜面は長く、段々になり、下へ伸びていた。そこへ雨が無遠慮に落ちてくる。雨は青い屋根の段々になっている斜面に着地し、その階段を降りて、屋根の終点から、地面へ身を投げる。雨は死んでゆく。死にたくて死ぬんじゃないさ、と雨は言った。僕は目の前に思い描いた弥一の幻に目を移した。

「死にたくて死ぬんじゃない、か。君も同じことを言っていたね」と僕は独り言を呟いた。

   雨は、地面に落ちていく。地面に落ちたくなくても、雨が地面に落ちるのは仕方のないことだ。それが雨なんだ。でも、弥一が死んでしまったのは、仕方のないことだなんて思いたくない。生まれて、自分で自分を殺すのが、弥一の宿命だったなんて思いたくない。

   死にたくて、死ぬんじゃないよ。

   弥一はそう言った。死にたくないのなら、死ななければいいのに。そうじゃなかったのか?死にたくなくても、死ななければならなかったのか?僕にはわからない。いや、わからなかった。精神疾患など根性でなんとかなるとうそぶいていた僕は、弥一の陥った状態を理解しようともしなかったんだ。雨が降ることを止められないように、弥一にも死ぬことを止められなかったのかもしれない、なんらかの抗しきれない力が働いていたために。

   アパートの駐車場に停めた、もう半年近く乗っていない軽自動車が目につく。エンジンが掛かるかどうかもわからない。無駄に駐車場代がかかっている。このまま、貯金も尽きれば、手放すことになるだろう。この車は、僕が社会に出て二台目に購入した車だ。一台目の車は、二年前に単独事故を起こして廃車になってしまった。その時、車は酷い有様だったけれど、僕は首を痛めただけで済んだ。

   気をつけろよ、僕は君の運転を見てると、どうも逝き急いでいるようにしか見えないな。

   君はそう言ったね、弥一。僕に死ぬなと。僕は、嬉しかったよ。それ以降、もう無茶な運転だってしなくなった。それなのに、僕に死ぬなと言った弥一は先に死んでしまった。なんでこうなったのだろう。

   ぼんやりと車を眺めながら、もう飽きた気になって通り過ぎると、いつもは目につかない植え込みの木に目が行った。こんなところに木が生えていただろうか。僕がコンビニに行っている間に、誰かが急いで植えたのではないのだろうか。きっと前から植えられていたのだろうけど、気がつかなかった。人は急いだ生活を送っているか、あるいは、ぼんやりとし過ぎているかで、見落としているものが多いようだ。

   僕はじっくりと意識的にアパートの周辺を見回してみた。馴染みある場所なのに、あたかも見知らぬ土地に来たような錯覚に囚われた。本当にここは三年も暮らしたところなのだろうか。

   駐車スペースの後の植え込みの木は、雨に濡れ、生き生きとしているように感じられた。雨に染められた周りの死んだような風景の中で、唯一、この木は生きているように思えた。周囲の風景を死なせた雨ですら、地面に当たると死んでしまうというのに。木は、地面に浸み込んだ水を吸収する。誰かが死んだとき、それを糧として、他の誰かが生き生きとした生活を送っているような気がした。人の死をいいことに。考えたくもないことだったけれど、僕にはそれが真実のように思えた。

   弥一を自殺に追い込んだ何かが、今、この世の中で、ニヤニヤと息づいていると考えたら、僕はそれを憎悪する。それが特定の人なのか、社会なのか、僕にはわからない。弥一は何も遺さずに死んでしまったから。

   翌日、植え込みの前にハゲたオヤジが立っていた。どうやらアパートの管理人らしく、軍手をして枝切りバサミを手に持っていた。植え込みの手入れをこまめにしているのだろう。僕が軽く会釈をしながら、すれ違おうとすると、管理人は僕を不審そうに睨み付けた。平日の昼間にラフな格好でブラブラしていることを不審に思ったのか、等間隔に植えられた木のうちの一本が根元から強引に折られていることに怒ったのか、僕には判断できかねた。折り倒された木の向こう側に光があたり、そこに張り巡らされたクモの巣に雨露がきらめいていた。管理人は、そのクモの巣を蹴散らすと、しばらく折れた木の前に立ち尽くしていた。

   僕は、ハゲた管理人の目つきなど不快ともせず、晴れ渡った空を仰ぎながら、いつものコンビニへ向かった。アルバイトでも始めようと思い、求人誌を貰った。僕がアルバイトに応募し、採用されると、他に応募していた誰かは採用されないのかもしれない。誰かが笑うと、誰かは泣くかもしれない。人は見えないところで人が苦しもうが、死のうが、そんなことはどうだっていいんだ。そのくせ、自分の目の前で起こる人の生き死には、極端に嫌がる。見えないところは当然無関心だから、無神経に踏みにじることができるし、それに関しては、そもそも見えないところだし、意識的に考えていないので、何も感じない。その辺を歩いている市民の顔を見ると、そうした罪の意識などまるで感じられない。

   弥一を殺したのもそうした無関心な市民の力だったのだろう。その市民が形成する社会の中に僕がいる。僕は怖くなった。僕はその市民の一員なんだ。僕のような人間が弥一を殺してしまったんだ。僕はあの植え込みの木を力任せにへし折ってスッキリとしたけれども、管理人はそのことで酷く塞ぎ込んだ。その腹いせに、植え込みの向こうに張り巡らされたクモの巣は蹴散らされてしまった。あの植え込みの木や、クモの巣は弥一であり、また自分自身でもあった。

2009/06/24   たびびと

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